グラウビュンデン行きについて、スイスの友人と電話する。彼とその同居人達と一緒に行くことに。皆さん何度か会ったことがある人達なので、あまり気を使わなくてもいいだろう。一人ネイティブ英語圏の人がいて、大変美しいクイーンイングリッシュをおしゃべりになるので、時々彼が何を言っているのか聞き取れない。ネイティブの英語ほど難しいものはない。

私のグラウビュンデン、国立公園行きは通算6回目だ。何度行っても飽きることはないし、その変化を知りたいと思ってしまうので、何度も足を運んでいる。あとは精神的なものもある。でもさすがにロマンシュ語をマスターしようというところまではきていないけれども。
私がはじめてそこへ足を運んだのは、精神的に痛んだときだった。よくありがちな学生の悩みであったが、研究結果をアウトプットすることについての意義に悩んでいたり、職業として(お金をもらって)研究をすることについての私の人生における意義付けについて悩んでいたり。私はそのときまで、‘職業研究者’というものになるつもりはなかった。し、そのための資格なども必要ないと考えていた。あとは、自分が自立した研究者になれる能力など持ち合わせていないと感じていた。だから研究結果をアウトプットすること(しかも美しくないデータでもって)に対して私のエネルギーを消耗することについて意義を見出せないでいた。
ある程度な精神的な打撃は私を少しだけ‘少しだけ’思考する人間にさせてくれた。
今は、理解ある人々に囲まれて、そんな人達とお話をしたり、いろんな国のいろんな研究者に会って、いろんな‘職業研究者’というものがいていいのだと認識できて、私のような人間でも、私にしかない視点というものがあり、私の視点でもってしかできない研究のやり方が存在するのだということを認識できた。それが真かどうかは私が本当に自立するまでは証明できないのだけれども。

グラウビュンデンは心のふるさと的な存在になっているかも。